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川ちゃんの「カンボジア生活日記」

「アキラ地雷博物館」でのボランティア活動の中で出会った人々のことや、日々の可笑しくも楽しいカンボジア生活を綴っていきたいと思います。

柏木先生、カンボジア来訪の記

8月13日(日)

今、部屋の外では大音量で、お経を読む声が流れています。
つい先日も、3日間に渡って同様にお経や音楽が早朝から流れ、安眠を妨害され、更にはテレビの音が聞こえない被害を被ったばかりでした。
昨日、その葬式会場前を通ったら、テントが撤収されていたのでヤレヤレ終わったなと安堵したのも束の間、今朝は他の場所で葬式が行われていて、この騒音被害です。
恐らく明日も明後日も続くでしょう。
何で、こんなに大音量で音を垂れ流すのか、近所迷惑もいいとこですが、カンボジアではこれが当たり前。
葬式だけで無く、法事でも結婚式でも他の様々な行事でも、兎に角大型スピーカーを設えて音の大きさを競い合います。
理由を確かめた事はありませんが、恐らく各々の存在を誇示しているのでしょうね。
しかし、それにしてもカンボジア人は音には寛容と言うか、我慢強いと言うか、自己チューと言うか。
日本人には耐えられません。でも、カンボジアで生きて行く以上、耐えるしか無いのです。ウウッ(涙)。

さて、先週の6日から10日まで、日本人応援団のメンバーであり、私と同郷の岡山の中学校の英語の先生である柏木信恵さんがシェムリアップに滞在され、あちこち案内して回りました。
柏木先生に初めてお会いしたのは、ちょうど1年前の去年の8月でした。
同僚の中川先生と2人でカンボジアに来られ、後で生徒に話を聞かせる為に、アキラ氏と対面してインタビューさせて欲しいとミュージアムに来館されたのが最初の出会いでした。

そうそう、アキラ氏は、日本の中学校2年生用の英語の教科書に、6年程前から記事が掲載されているんですよ。
三省堂から出版されている「ニュー・クラウン」です。
私の中学校時代は、もうかれこれ50年も昔ですが、使った英語の教科書は確か「ニュー・プリンス・リーダーズ」でした。ナチカシ~(懐かしい)
学校によって、と言うか、地域によって採用されている教科書が違うので、「ニュー・クラウン」がどれ位の割合で使用されているのか知りませんが、恐らく結構多くの学校で使用されているものと思われます。
現に、来館される人々の中に、アキラ氏の事を授業で習いましたと言う人や、教えている中学校の英語の先生が、少なからずいらっしゃるからです。

柏木先生も、そうした人達の中の一人でした。
でも、私と同郷の岡山の先生だと言う事は全くの偶然でしたが。
帰国された後、中川先生共々早々に、応援団員に登録して下さいました。
その柏木先生は、去年の12月には1人でカンボジアに来られ、その時にもあちこち案内して回りましたが、今回が3度目と言う事で、前回行けなかった所を中心に案内しました。

彼女が一番行きたかった所は、地雷原でした。
地雷原は危険な所であり、余り安易に行くべき所ではありませんが、私は基本的には行きたがっている人は案内する様にしています。
話を聞いただけでは、中々実感として分からない地雷の怖さや、撤去活動の困難な実情を身をもって体感する事により、私が博物館でガイドしている内容をよりリアルなものとして捉えて貰えるからです。
今回の地雷原は、シェムリアップから車で約2時間半のコンポン・トムと言う地でした。
近くには、先月世界遺産登録されたばかりの「サンボープレイクック遺跡」や、1993年の総選挙の時にポルポト派に襲撃されて殺された中田厚仁さんを顕彰して建てられた「アツ小・中学校」が在ります。
私はこれまで10回近く地雷原に行っていますが、今回の地雷原は、私が今まで行った事のある通常の地雷原、つまり地中に埋められた地雷や不発弾を探す現場と異なり、アメリカ軍が落としたクラスター爆弾の中の子爆弾を探す現場でした。
幹線道路からそれ程離れてなく、近くに民家が点在する普通の場所でしたが、そこら一帯では2009年から現在までで500個の子爆弾が住民によって発見され、数人の死傷者も出た様です。
CSHDの隊員17名が、今月7日から31日まで、この地で地中に埋まった子爆弾の探索活動をすると言う事でした。
我々が行った時、子爆弾では無いのですが、ちょうどヒューズの外れたパイナップル地雷が1個見つかっていて、その爆破処理を見学する事が出来ました。
隊員達と同じ防護服とヘルメットを身に着け、地雷原を歩き、この爆破現場を目撃した柏木先生は、相当衝撃を受けた様です。
それまでは相当おしゃべりだったのに、帰りの車の中では殆ど喋べりませんでしたから。




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地雷原の説明を受ける柏木先生                        隊員達との記念撮影

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見つかったパイナップル地雷                               爆破処理



この地雷原行きとは別の日には、今度は私が一番案内したい所のあの「アナコット・カンボジア」の田中千草さんを訪ねました。
田中千草さんには「アキラ地雷博物館・日本人応援団」の呼び掛け人にもなって貰っていますし、このブログにも何度か登場頂いていますが、カンボジアで活動している人の中で、私が一番凄いなあと尊敬している人です。
2012年11月11日付け 「カンボジア・アナコットの紹介」
2013年3月10日付け 「ワットボー小学校に日本のプロ歌手登場の巻」 
2013年3月31日付け 「ワットボー小学校第8回芸術音楽発表会」

因みに2番目がバッタンバンの岩田亮子さんです。
(えっ、私は2番目なのと怒っている岩田さんの顔が目に浮かびます。ゴメンナサイ、亮子さん。)
正に、「カンボジアのマザー・テレサ」と呼んでいい位の人ですが(柏木先生が、初めて千草さんに会って話を聞いた時、思わずそう呼んでいました)、まあ、その辺の事は改めて書くとして、兎に角この田中千草さんのシェルターを訪問しました。
実は、去年の12月にも柏木先生を田中千草さんに会わせようとこのシェルターを訪問したのですが、生憎本人に会えなくて、今回が初めての対面となりました。
忙しい中、家庭訪問に同行させて貰い、又別の日には学校での音楽の授業を見学させて貰い、食事もご一緒する事が出来ました。
柏木先生だけでなく、私も大感激でした。
就労支援活動、貧困家庭の救援活動の現場を垣間見ただけでも、また、タイに売り飛ばされそうになった子供を正に命懸けで救出する話や、家庭訪問先の親子の惨状を目の当たりにして、改めて凄い人だなあと柏木先生と二人して感動しまくりました。


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田中千草さんの音楽の授業を見学する柏木先生              田中千草さんとの会食



他にも、前回訪問した「ケセド孤児院」(今の名前は「hope」だそうです)に行って子供達と一緒にカレーを作って食べたり、ゲームしたり。
それから、アキラ氏の家に行ってアキラ氏や子供達に会ってプレゼントを渡したり。
勿論、博物館にも来て貰って、アメリカ人のビルさんに私が前から聞きたいと思っていた事を英語で質問して貰ったり、或いは「リリーフセンター」の子供達にジルさんが英語の授業をしている所を見学したり。
その他、日本人経営のレストラン3店舗、フルーツパーラー、みやげ物店等に行って、経営者の日本人から話を聞かせて貰ったり、そこに集まったカンボジアで活動している若者達に刺激を受けたりとか。
他にも行った所はまだまだありますが、もういい加減疲れたので止めますが、兎に角滞在期間中、目一杯動き回りました。



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食事中の「ケセド孤児院」の子供たちと柏木先生                子供たちに授業をする柏木先生 

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干し飯作りの現場を見学する柏木先生                


これは、柏木先生がカンボジアに初めて来た時からカンボジアを大好きになり、これから自分がカンボジアに対して何が出来るか出来ないかを検証する為だそうです。
嬉しいですねえ、こうしてカンボジアを好きになってくれる人が増える事が、私の喜びでもあります。

このブログを読んで下さった皆様の中で、まだカンボジアに来られた事の無い方は、是非一度カンボジアに足をお運び下さい。
私が、誠心誠意水先案内人を務めますので。



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  1. 2017/08/14(月) 02:34:52|
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森本喜久男さんの事

7月30日(日) 

森本喜久男さんが、私が日本に帰国している間の今月3日にお亡くなりになりました。
まだ68歳でした。

森本さんの事は、前にブログ「IKTT伝統の森」で行われた第11回蚕祭りで紹介しておりますので、御覧頂きたく思いますし、又、ネットで検索して頂くと大勢の人が紹介記事を掲載しています。

日本のテレビでも何度か紹介されました。今年の4月に放送された「情熱大陸」ですとか、何年か前にも「世界ナゼそこに?日本人」他、数回取り上げられていると思いますので、日本でもかなりの有名人だと思います。
また、2015年には白水社から「カンボジアに村をつくった日本人」と言う森本さんの手になる書籍が出版されています。

森本さんは、6年前から膀胱癌を患われていて、最近では京都の病院とカンボジアを1ヶ月おきに行き来されていて、最後にお会いした2月には恐らく相当具合が悪かったと思いますが、気力だけで懸命に仕事をこなされていました。

私が森本さんに初めてお会いしたのは、2012年2月29日、博物館の敷地内にテントを張って開催された、アキラ氏の亡くなった奥さん・ワットさんの法事の席でした。


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森本さんに初めてお会いしたワットさんの法事の席  森本さんと話しているのがアキラ氏


私は2011年3月からカンボジアに住んでいて、森本さんのお名前は存じていたのですが、お顔は知らなかったので、ひょっとしたらそれまでも日本人会の集まりなどでお会いしていたかも知れませんが、正式に御挨拶したのは2012年のその法事の日でした。
その時の印象は、今でもはっきり覚えていますが、もう完全にカンボジアナイズされていて、まさかアキラ氏と話しているその人物が日本人とは、最初は思いもしませんでした。
それ位、すっかりカンボジアに溶け込んでいる印象でした。

それ以降は、「伝統の森」が博物館から比較的近い事もあって、博物館に来られたお客様を伴って割と頻繁に訪問させて頂いていました。
2013年3月の蚕祭りにも、日本人仲間と一緒に訪問致しました。
その時の事は、先程紹介したブログに詳しく書いています。



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王室の賓客を迎えての蚕祭り

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蚕祭りのファッションショーで挨拶する森本氏


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2013年7月13日、応援団員の後藤夫妻と共に「伝統の森」を訪問




また、私は2014年2月から2年間日本に帰国していましたが、その間の2015年7月15日には、広島県尾道市の向島で森本さんの講演会があって、岡山から駆け付けました。

2016年1月から再度カンボジアで生活する様になってからも、何度か日本のお客様と一緒に訪問させて頂きましたが、その都度、病を抱えながらも己の信念に従って、力強く生きている森本さんから励まされ、刺激を受けていました。

そして、最後にお会いしたのは今年の2月23日、「伝統の森」で行われた歌手の加藤登紀子さんによるコンサートと森本さんへのピアノ贈呈式の場でした。
この時には、加藤登紀子さんとは別に、前日バッタンバンの岩田亮子さんの孤児院「ホープ・オブ・チルドレン」でも演奏会を行った、日本からやって来たグループの「ワールドシップ・オーケストラ」による演奏会も同時に開かれました。
この時は、実は私も体調を崩していて、演奏会の間中しんどくて堪らなかったのですが(後日病院に行って腎臓が悪いと分かり、その後1ヶ月間服薬治療を続けました)、でも、今から思えば無理をしてでもこの日参加していて本当に良かったと思います。だって、これが森本さんとの最後の別れとなったのですから。
この時も森本さんは、本当は相当しんどかったと思いますが、毅然とした態度でお客様にも挨拶され、我々一般聴衆者に対しての気遣いをされていました。


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伝統の森で開催の「村の小学校にピアノがやって来る」の看板


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「ワールドシップ・オーケストラ」の演奏開始前に挨拶する森本氏

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加藤登紀子さんと握手する森本氏


来月には、去年の12月に一緒に森本さんの「伝統の森」を訪問した日本からのお客様が見えるので、又一緒に訪問する計画を立てていた矢先の訃報であり、本当に残念です。
でも、森本さんは、病を抱えながらも最後の最後まで一線を退く事無く、先頭に立って自分のやりたい事をやり通した人生だったのですから、幸福感の内に迎えた最期だったでしょう。
見習いたいと思います。
心より、ご冥福をお祈り致します。



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  1. 2017/07/31(月) 00:49:28|
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後藤一幸さん・朱実さん夫妻のこと

12月11日(日)  

今年も、もう残り20日を切ってしまいました。
月日の経つのは本当に早いですねえ。
こちらカンボジアは、暑くて大変・・・と言っても、朝晩は時に涼しく感じる時もありますが、日本の皆さんは毎日寒くて大変でしょう。お察し申し上げます。

 さて、今回のブログは我らが同士・後藤夫妻のことに付いて書こうと思います。
先月27日から今日まで、応援団員の後藤一幸・朱実夫妻がシェムリアップに滞在されていました。
今回で、カンボジア渡航がちょうど10回目だそうです。
ほぼ、年2回のペースで来られていて、御夫妻共に、私と同様にカンボジア大好き人間です。
奥さんの朱実さんは、去年の10月、11月の2ヶ月間、博物館で私の替わりにボランティアガイドも引き受けて下さった方で、このブログの2015年10月5日付けの「初めまして。よろしくお願いいたします」から2015年11月19日付けの「ありがとう~、感謝を込めて、そしてまた会えるときまで・・・・」を担当して戴いています。
また、2013年8月5日付けブログ「後藤夫妻と共に行くカンボジア・ミニ・ツアー」にも登場して頂いていますので、皆さんもよく御存知だと思います。

後藤夫妻と私はほぼ同年齢ですが、お二人は私なんかより遥かにエネルギッシュで、これまで地域での様々な活動を始め、大地震のあったネパール支援の為、現地を訪問しただけでなく、帰国後に写真展を開いて被災地の現状を多くの人に知らせ、支援金を募ってそれでまた被災地支援を行ったり、カンボジアに対しても、仲間に呼び掛けて文房具や本、おもちゃ、衣服を集めて孤児院や学校、貧しい村に寄付したりと、それはそれは精力的に活動されています。
又、趣味の分野でも、酒と歌位しか興味の無い私と違って、お二人とも楽器演奏(ギター、フルート)、マラソン、写真etcと実に多彩です。
私も日本に帰っていた2年間で2回、三重県の御自宅を訪問し、泊めて頂いた上で色々な話を伺わせて頂きました。

思えば後藤夫妻とは、長い付き合いになりました。
中日新聞に載った私の紹介記事(犯罪者として載ったのではありませんので念の為)を見たと言って2012年10月に連絡を頂き、その後メールでのやり取りが続き、2013年1月には御夫婦揃って応援団員登録をして下さり、そしてその年の2月6日に博物館を訪問して頂きお会いしたのが最初の出会いでした。
その前にも博物館にはお越し頂いていたのですが、私が不在でお会い出来ていませんでした。
カンボジアにお越し頂く度に、色んな所に御一緒させて頂いていますが、今回も何箇所か同行させて頂き、何人かの人にお会いしました。
その中で、特に印象に残ったのが次の2人の人物です。
その一人は大房明良君と言って旅行会社「チョルモイツアーズ」を経営しながら、語学学校や保育園を作ってスラム街や農村部の貧困に喘ぐ子供達の支援を行っている26歳の若者。



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左から後藤朱実さん、一幸さん、そして大房明良君

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大房君の運営している語学学校


そしてもう一人は、山勢拓弥君と言って、一般社団法人「クマエ」を立ち上げ、バナナリーフペーパーという、バナナの木の幹から繊維を取り出して、それで紙を作ってポストカードとか名刺などの製品にし販売する事でゴミ山で暮らす人々に雇用の場を提供し、生活支援している23歳の若者。


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山勢拓弥君

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バナナリーフペーパーの工房

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山勢君が支援しているフリースクール


この2人の若者とは、後藤夫妻も私も、前々からの知り合いでしたが、今回改めて話しを聞かせて貰い、3人で深く感銘を受けた次第です。
2人ともまだ大変若いのに、実にしっかりした人物でした。
2人の人物紹介については、また日を改めてやりたいと思いますが、この2人から多くの事を学ばせて貰いました。


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DSCN1274.jpg 紙すきの工程



後藤夫妻とは、滞在された15日間で他にも色々な所に同行させて貰い、私も随分刺激を受けました。
今からもう、来年の御来訪が楽しみです。
もっとも私は、半分は飲んだくれていたので、本来は倍の刺激を受けられたのに大きく損をしてはいますが・・・。




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我々の仲間のチャイに連れて行って貰った村で、子供達に文房具やお菓子、ぬいぐるみを配る後藤一幸さん

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村で食事を御馳走になる後藤夫妻




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  1. 2016/12/12(月) 17:46:12|
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カリマンタンの青い空・田辺美穂子さんのこと

10月23日(日)  



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2014年 タプロム寺院のスポアンの木の所で


先週のブログで予告しました通り、今回はあの田辺美穂子さん、通称ミポリン・・・いやいや、ミポリンは中山美穂で妹は中山忍です。(オレも結構ミーハーだわなあ)
失礼しました。田辺美穂子さん、通称ミホさんの人物紹介をしたいと思います。

ミホさんは、広島出身の女性で年齢は恐らく40代。
私が2014年2月に帰国した後、約5ヶ月間、「アキラ地雷博物館」でボランティアガイドをしてくれた人であり、このブログの、2014年3月2日分「はじめまして」から6月12日分「さようなら。ありがとう」までの18編は彼女が書いたものです。

私が彼女と知り合ったのは、2013年10月に「アキラ氏平和学習講演会」を岡山で開催した折、その会場の手伝いに広島からやって来てくれたその時でした。
東京在住の共通の知人からミホさんの事を紹介して貰い、講演会の手伝いを依頼したところ、喜んで引き受けてくれたのです。
その知人と言うのは、旅行会社の社長でミホさんの植林活動仲間であり、私とはその旅行会社が博物館にボランティアツアー客を送り込んでくれている関係で知り合った人です。
ミホさんは、私の帰国後のガイドの依頼も、初めて会ったその時に、いともあっさり引き受けてくれました。

彼女は、若い頃(失礼、今でも十分若いですが)世界のあちこちを旅していて、10数年前にカンボジアを訪れた際、初代の「アキラ地雷博物館」を訪問していて、その時アキラ氏や亡くなった奥さんにも対面し、その時からアキラ氏の大ファンになっていたのです。
でも、彼女の現在のフィールドはインドネシアのカリマンタン島。
彼女は、人間以上に動物が好きなのです。
動物の安心して暮らせる環境整備をしたいという事で、20代後半にそれまで勤めていた出版社を退職しフリーになって、ます最初に始めたのが中国のゴビ砂漠での植林活動でした。
その後、日本でアパレル関係の仕事をしてお金を貯めては、年に何回かの植林活動を続け、やがて活動の場をインドネシアのカリマンタン島に移しました。
初めはカリマンタンでも植林活動をやっていたのですが、その内オランウータンの保護活動に取り組んでいる現地のNGOと出会い、今ではそのNGO「C.O.P」の手伝いをしていて、年に何回か出掛けては自分の貯めたお金を寄付したり、オランウータンの飼育を手伝ったりしています。
詳しくは彼女のブログ「カリマンタンの青い空」
をご覧頂きたいと思います。



ボルネオ (2) (1)
ゴビ砂漠にポプラを植林

ボルネオの美穂さん
ボルネオでの植林

ボルネオ (1)
ボルネオの巨木の前で



彼女は、人間以上に動物が好きと言いましたが、本当は人間も大好きで、植林活動や動物の保護活動以外にもインド・コルカタのマザー・テレサが作った施設「マザー・ハウス」でのボランティア活動をやったり、植林、動物保護を行っている人々に対する支援活動も行っている訳で、決して人間が嫌いな訳ではありません。
彼女の活動内容をまとめたレポートを数編読ませて貰ったことがありますが、何れにしても、彼女の弱い立場の人や動物の力になりたいとの情熱は凄まじく、私など足元にも及びません。本当に凄い人なのです。




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カリマンタンの可愛いオランウータン

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オランウータン2

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NGO「C.O.P」のメンバー達とミホさん

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NGO「C.O.P」のメンバー



しかーし、そんな彼女ではありますが、前にも言いました様にかなりのミーハーで、私とカンボジアで初めて会った時、ホテルの壁に貼ってあった高田純次の写真を見つけて最初に言った言葉が、「私この人、だーい好き・・・」。
私が「高田純次は去年カンボジアに来て、俺も会ったよ」と言うと、「私も会いたい、今度いつ来ますか?」だって。
私は呆れ果てて、「もう2度と来るもんか」と言ってやりました。
それから、私がリオ・オリンピックのマラソン・カンボジア代表になった猫ひろしとフェイスブックで繋がっていると言うと、「どうしても猫さんに会いたい、今度カンボジアに来るのはいつか聞いてくれ」「プノンペンにいるなら会いに行く」と言うし。
それに彼女は、その好みの連関性は全く理解不能ですが、自称「陸上と柔道とお笑いをこよなく愛する女」だそうで、リオ・オリンピックのあった8月にはオリンピックで燃え尽きてオリンピックロスになったとか猫ひろしの走りに感動したので、いつか必ずカンボジアで猫さんに直接会うと宣言したりするのです。


そんなチャーミングな彼女ですが、あくまで活動の拠点はカンボジアでは無くカリマンタンなので、我が「アキラ地雷博物館・日本人応援団」のメンバーではありません。
しかし、その応援団の呼び掛け人になってくれていて、側面からいつも応援してくれている頼もしい仲間です。




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2014年1月 アキラ氏に「アキラ地雷博物館・応援基金」の浄財を手渡した時のもの。
左から私、アキラ氏、そしてミホさん



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  1. 2016/10/23(日) 13:46:59|
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孤児院ボランティア・岩田亮子さんの巻

岩田亮子さん
岩田亮子さんとカンボジア人スタッフ2人


5月26日(日)

先週御案内の通り、今回は、バッタンバンの孤児院で孤軍奮闘中の、岩田亮子さんの御紹介です。
カンボジアでは、孤児院と言っても必ずしも親の居ない子供たちが対象では無く、貧困や病気、虐待など様々な事情を抱えた子供たちが、親元を離れて生活している施設です。
大抵の場合、政府からの援助は無く、色々な国のNGOやカンボジア人の篤志家が身銭を切って運営しています。
シェムリアップには、日本人が運営している孤児院も何箇所か有りますが、バッタンバンには恐らく1箇所も無いと思われます。
岩田さんがボランティアをされている孤児院は、バッタンバンの「HOPE OF CHILDREN」(HOC)。
カンボジア人のお坊さんが作った孤児院です。
最初はお寺の中にあったそうですが、2011年に今の場所タコック村に移転しています。
岩田さんがその孤児院を手伝う様になったのは、2009年7月から。
日本でJALの国際線スチュワーデス(所謂スッチー)だった岩田さんが、何故カンボジアの孤児院で働く様になったのか。それもボランティアですから、全くの無報酬で。
そこには物凄い人間ドラマが隠されている訳ですが、私の筆力では十分お伝え仕切れませんので、関心を持たれた方は是非ご本人から直接伺って下さい。

ヒントを申しますと
1 前々から東南アジアへ、支援物資を送ったりの活動をされていた。
2 早期退職制度を利用して、45歳の時退職された。
3 日本に居た時、日本語教師の資格を取得されていた。
4 手の届く国際貢献をしたいと言う強い思いを、かねてから持たれていた。

以上です・・・って、これだけじゃあさっぱり分からんわなあ。
兎に角、55歳の時カンボジアに単身乗り込まれ、それも余り日本人の居ないバッタンバンで、孤児院と言う右も左も分からない全く未経験の分野で、設立者のお坊さんとたった二人きりで運営に携わられたのです。
凄い勇気、決断力です。
世話をしている子供たちは、下が3歳から上は18歳迄で、人数は50人。
多い時には100人近く居たそうですが、孤児院の生活に馴染めなかったり、卒業したり、また新しく入ってきたりで人数は流動的です。それでも50人と言うのは、二人で世話するには大変な数です。幸い卒業した子供たちの中から2、3人の優秀な子がスタッフとして残って手伝っていますが、それでも人手が足りてるとはとても言えません。
そんな中、資金不足を補う為に自給自足を目指して米作り、野菜作りにもチャレンジされ、お坊さん、岩田さんとも全く農業未経験のお二人が、見よう見まねで田植えをし野菜の種を蒔かれたそうです。今では年間2トンの米を収穫し、バナナ、マンゴー、パパイヤ、ヤシ、米の育たぬ時期に冬瓜、豆類、とうもろこし、マッシュルーム、葉物野菜など収穫されている様ですが、米も1ヶ月で1トンを消費すると言う事ですから、決して足りているとは言えませんが。
また更には、運営資金の確保と、土地を提供してくれたタコック村に対する雇用支援を目指して、敷地内に縫製工房を設立し、そこで村人の女性数人が、日本の子供向けの可愛いリュックサックとポーチを作っていました。日本の或る企業が、この孤児院に対する支援の一環として、一括して購入してくれるそうです。
これとて、企業経営、縫製などの専門知識の全く無い岩田さんが、子供たちの世話で忙しい中、色んな人の伝手を頼り、独自に勉強されて行っている訳ですから大したものです。
しかし、カンボジアならではの様々な困難を抱えていて、トタン屋根の為工場内が蒸し風呂状態であったり、周辺に虫が多くて、その虫が梱包した製品の中に入って税関で引っ掛かったりと、日本では考えられないトラブルが色々有る様です。
設立者のお坊さんも凄い人で、敷地内に建っているゲストハウスなどの建物は、お坊さんと子供たちの手作りだそうです。
子供たちの宿舎は、イギリスとイタリアのNGOが資金を提供してくれて建った様ですが。
子供たちは数キロ先の学校に通っていますが、バッタンバンはまだまだ治安が悪く、子供の誘拐などの危険がある為、2台のトゥクトゥクを購入して、卒業生スタッフの運転で学校への送り迎えをしていました。
また子供たちは、学校から帰ると孤児院内に作られたパソコン教室で、パソコンの勉強もするそうです。先生は卒業生スタッフとか。
あと、現在寺子屋も建設中で、私の居る「アキラ地雷博物館」の中の「リリーフ・センター」同様に、ここでも子供たちに学校とは別に独自の教育を施そうとしていました。

運営資金が十分と言えない中で、色々アイデアを出し、身体を動かし前向きに取り組むこの方の、私と同い年とは思えないそのバイタリティに、只々圧倒されます。
物腰柔らかく、上品で笑顔の絶えないこの方の、何処にその様なエネルギーが秘められているのか。
田中千草さんと言い、赤尾和美さんと言い、この岩田亮子さんと言い、カンボジアで活躍する女性恐るべし。
ここにもまた、輝ける日本人がいました。


所有のトゥクトゥクで学校から帰って来た子供たち
孤児院所有のトゥクトゥクで学校から帰って来た子供たち

孤児院全景  建築中の寺子屋
孤児院全景、
 この空き地が雨季になると田んぼになります。     建築中の寺子屋、 廃材利用です。


子供たちの宿舎(男子寮)  子供たちの宿舎(女子寮)
子供たちの宿舎(女子寮)                  子供たちの宿舎(男子寮)

縫製工場外観  縫製工場内
縫製工場外観                         縫製工場内


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