「スピアン・コンポンクディ」案内板10月28日(日)
24日の水曜日、仲間と3人で「スピアン・コンポンクディ」を見学して参りました。
スピアンとはクメール語で橋の意味。
そうです、「スピアン・コンポンクディ」とは、コンポンクディにあるので「コンポンクディ橋」と言う何のひねりも無い名前ですが、これはそんじょそこらの橋ではありません。
何と1000年の歴史を誇る、アンコール王朝時代に作られた石の橋です。
「アンコール・ワット」なんかよりももっと古く、日本で言えば平安時代。あの牛若丸が弁慶と戦った京都・五条大橋と同じ頃に作られた橋です・・・きっと。
(いい加減ですので、人には言わないで下さい。ヘッヘッヘッ)長さ80メートル、幅12メートル位あり、非常に頑丈で立派な橋です。
今でこそ大型バスやトラックは通行出来ませんが、つい先頃までプノンペン行きのバスは、この橋を渡っていたそうです。ホントにオッ・チャー(凄い!)ですよね。
前々から話しに聞いていて、是非一度この目で見てみたいと思っていたところ、「アキラ地雷博物館」のお客さんとして知り合った古川辰己さんに「カンボジアの田舎を見学に行こう」と誘われて、その古川さんの知人のカンボジア人・ソックミン君の実家があるシェムリアップ州コンポンクディのコクト・ロック・ルー村に泊り込みで行ったのが、この橋を見るそもそものキッカケでした。
コンポンクディはシェムリアップの街から国道6号線を東に約60キロの距離にあり、ソックミン君の実家はそこから更に北に10キロ入った所に有ります。
博物館の仕事を終えた23日の夜、日本人のオッサン2人とカンボジア人の若者1人が100ccのホンダバイクに3ケツして一路コンポンクディを目指しました。
最初は大人しく走っていたものの、同じ3人乗りのバイクに追い抜かれたところで根っからの走り屋の本能に火が点き、あとはアラカン暴走族の本領発揮です。
そうです、前のブログ「カンボジア交通事情」で登場した「赤い稲妻」の彼とは、読んだ人全員がお気付きの通り、何を隠そうこの私の事です、
ヘッヘッヘッ。
夜の国道6号線を目一杯ブッ飛ばし、顔に大小様々な虫がバチバチと張り付いてくるのを物ともせず、
走るわ走るわ。
日本でだったら間違い無く、警察に御用になっていたでしょう。
後ろの二人も、生きた心地がしなかったと思います。ホンマに我ながら
アホです。
6号線から北に入った道は未舗装で、かなりの悪路。今年は雨が少ないからいいものの、去年だったらバイクでは相当苦労したであろうその道を、何とか誰一人バイクから落っこちる事無くソックミン君の実家に無事に辿り着きました。19時半頃の事です。バイクで2時間の長旅でした。
この後見ず知らずの私如きを大歓待してくれ、改めてカンボジア人の懐の深さ、心の優しさに触れてその夜は心地良く就寝。子供の時以来久し振りに蚊帳で寝ました。
夜中に大雨が降ったにも拘わらず、日頃の行いが良いせいで(どこがじゃ)、朝には快晴。
その中を朝食の後、近所のお寺、貯水池の水門、日本人の支援で建ったと言う学校などの見学に出掛けました。
そして午後になって待ちに待った「スピアン・コンポンクディ」を見学しに行ったと言う訳です。
この橋は1000年の間、カンボジア人の暮らしをつぶさに見て来た訳で、壮大なロマンを感じます。
多くの人や牛や豚やカエルやヘビやトカゲやネズミやアヒルやワニ(人以外はこの国の人の食材です)がこの橋を往来し、内戦の歴史も見ています。この国の栄枯盛衰を全て知っている訳です。
そんな橋が1000年の風雪に耐え、今でも普通に使用されている訳ですから、当時のカンボジア人の技術力の高さ、高度の文明に脱帽せざるを得ません。
今のカンボジアは、30年近くに渡る内戦でインフラが破壊され、文明も輝きを失っていますが、当時は世界でも有数の文明国だった訳です。
昔いくら栄えていても、愚かな戦争によって国は発展を止め、後退してしまうと言う顕著な例です。
日本も決して他人事ではありません。いつまでも愚かな政争に明け暮れていると、かつては幾ら世界のトップランナーを自負していても、世界にどんどん遅れを取って行きます。
政権を取る事にばかりうつつを抜かし、国民生活を顧みないと国の進むべき方向を見誤りますぞ。
話しが横道にそれましたが、帰途は横道にそれる事無く、真っ直ぐシェムリアップに戻って来ました。帰りはまだ明るかったので、行き以上にブッ飛ばした事は言うまでも有りません。おかげで楽しい時を過ごす事が出来ましたが、3人乗りはしんどかった~。
窮屈な姿勢で長時間走ったので、未だに内股が痛くて堪りません。
3人乗りでもこんなにしんどいのに、4人乗り、5人乗りをやっているカンボジアの人達はホントに凄いです。
この力がこれからのカンボジアの原動力となって、かつての失われた文明を復活させるのではないかと期待します
(かなり強引なこじ付けですが)。
日本の皆様もゆめゆめ油断召さるな。
こんな混迷の時代だからと言って安易に強いリーダーを求めていると、いつポル・ポトの様な独裁者を頂に仰ぐ事になるか分りませんので、くれぐれも御用心を。
何とか維新だの裕次郎の兄貴だのに踊らされている場合ではありませんぞ。
あ~あ、「スピアン・コンポンクディ」の魔力に触発されて、ついつい要らん事書いてしまった、ヤバイ、ヤバイ。
3人乗りでも誰一人落ちなかったですが、お陰で文章も落ちの無い、ピンクネタでも無いつまらないものになってしまい、申し訳有りませんです。
次回は是非ともピンクネタを。アアっ、これを書くとまたプレッシャーが・・・。
人が行き交う「スピアン・コンポンクディ」
「スピアン・コンポンクディ」の橋脚
橋の守護神「ナーガ」の前に立つ古川さんとソックミン君
朝のお祈りの為、お寺に集う人々
お寺からの帰り
お寺からの帰り2
田んぼに出勤の図
貯水池の水門
貯水池の水門2
貯水池の水門3
貯水池の水門4
日本人が建てた小学校
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- 2012/10/28(日) 07:51:01|
- 旅行、探検ネタ
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シハヌーク前国王の遺影と弔問する人々10月21日(日)
今週の15日(月)、カンボジア・プチュンバン(お盆)最終日の未明に、シハヌーク前国王が療養先の北京で亡くなられました。享年89歳でした。カンボジア全土で17日から23日までの1週間、国民は喪に服しています。
シハヌーク前国王といえば言わずと知れたカンボジアの国父、1953年にフランスから独立を果たした独立の父ですが、その人生は波乱に満ちたものでした。
1922年にこの世に生を受け、1941年に前国王の死去に伴い弱冠18歳で即位。
その後1953年、31歳の時にフランスからの独立を達成し、カンボジア王国を誕生させます。
1955年に王位を引いた後は自ら政治指導者と成り、国家元首として国の統治にあたりますが、1970年、隣国ベトナムがアメリカとの間でベトナム戦争を戦っている最中、ロンノル将軍に拠る軍事クーデターで政権を奪われ、北京に亡命、この時47歳でした。
この後「反ロン・ノル」と言う共通項で、それまで政敵だったポル・ポト派と手を組み、図らずもポルポト派の台頭に大きく寄与するところとなります。
しかしそのポル・ポト派が1975年にロン・ノルを倒し政権を奪取した際、中国から帰国するのですが、直ぐに拘束され王宮に幽閉されてしまいます。ポル・ポト派にとっては政策に口出し無用と言う事でしょう。
このポル・ポト派が政権の座に就いていたのは僅か3年8ヶ月ですが、しかしこの間に国民の大量虐殺と強制労働と言う史上類の無い政権運営を行い、その悪名を世界史に残すところとなります。
そのポル・ポト派は1979年1月7日にヘン・サムリン率いるカンプチア救国民族統一戦線の部隊とそれを支援するベトナム軍のプノンペンへの侵攻によって政権の座から引き摺り下ろされますが、その後も長きに渡ってゲリラ戦を続けます。
プノンペンを攻略したベトナム軍はヘン・サムリン政権を打ち立て、その後10年間この国に駐留を続けますが、それをベトナムによる侵略と見たシハヌーク派のパラ軍は1982年2月、ポル・ポト派、そしてもう一つロン・ノル時代の首相だったソン・サン派と組んで反ベトナム三派連合政府を打ち立てます。そして全土を巻き込んでの内戦が、この三派連合とヘン・サムリン政権のカンボジア政府軍及びベトナム軍との間で繰り広げられるのです。
この間の戦いが、カンボジアの内戦の中でも最も熾烈を極めたものでしたが、ベトナム軍が1989年、冷戦構造が終結に向う中で、また世界からの批判に晒される中で撤退を余儀なくされ10年振りにベトナムに引き上げます。そしてそれを受けて、それまで争っていたそれぞれの軍がもう戦いを止めようと1991年、パリで和平協定を結び、これにより全土を巻き込んでの内戦は終結に向います。この時シハヌーク氏68歳。
この後もポル・ポト派だけは、1998年4月の指導者ポルポトの死まで戦いを続けるのですが、大きな戦いが終わったのを受け、この翌年国連のカンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和維持活動(PKO活動)に入り、更にその翌年の1993年には国連監視の下で総選挙が行われ、フンシンペック党と人民党による連立内閣が誕生し、新憲法を発布してカンボジアが立憲君主制のカンボジア王国として再スタートし、シハヌーク氏が国王に復権します。この時70歳。
シハヌーク氏はこの後2004年まで国王の座に君臨していましたが、82歳の誕生日目前に病気を理由に退位し、息子のシハモニ氏に王位を譲りました。
以上が、シハヌーク前国王の歩んだ歴史でした。
次に、そのシハヌーク前国王と共にこの国の内戦の歴史に関わった人物達の生年月日を調べてみました。
ロン・ノル将軍 1913年11月13日生まれ
1985年11月17日亡命先のアメリカで死亡。享年72歳

ポル・ポト(本名サロット・サル) 1928年5月19日生まれ 1998年4月15日没。
享年69歳

ヌオン・チア(ポルポト派№2、元人民代表議会議長) 1926年7月7日生まれ
現在86歳

キュー・サンファン(ポルポト政権・首相、元幹部会議長) 1931年7月27日生まれ
現在81歳

イエン・サリ(ポルポト派No3、ポルポト政権・副首相兼外務大臣) 1926年?生まれ
現在86歳?

イエン・チリト(サリの妻で社会問題大臣) 1932年生まれ
現在80歳
タ・モク(ポルポト派最高幹部の一人) 1926年生まれ 2006年7月21日獄中死。享年80歳
カンケイウ(トゥルスレン刑務所長) 1942年生まれ 現在70歳

ヘン・サムリン氏 (ポルポト政権を倒し、新政権を築いた人) 1934年生まれ
現在78歳

フン・セン氏(ヘン・サムリン氏と共にポルポト政権を倒し、新政権を築いた人で現在の首相) 1951年4月4日生まれ
現在61歳
こうして見るとシハヌーク前国王を始め、結構みんな長生きですよねえ。カンボジアの平均寿命は現在50歳代ですが、これはやはりポルポト時代に大量虐殺された為であり、これからはどんどん平均寿命も延びて来るんでしょうね。一般の人々もこれからは大いに長生きして欲しいです。
それと、ここで使った写真はネットから勝手に拝借してきたものですが、これってマズいでしょうかねえ?
マズければ直ぐに削除しますので、どなたか詳しい方、ご一報下さい。
まあ、どれも有名で出回っている写真ではありますが。
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- 2012/10/21(日) 04:10:52|
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「CSHD」の隊員達と共に10月14日(日)
アア~、予告した
ピンク路線記事が書けましぇんです。
ウウッ! あまりに
ピンク路線に固執し過ぎて自縄自縛に陥り、見る夢までが
ピンク色 (それは無いか)。しかし実際のところはこの年にして経験不足
(ホンマかいな)で、書くネタは無し。
思い付く事と言えば、博物館の食堂のオバさんが着ているパジャマの色が
ピンク色と言う事位の体たらく。
因みにこの国では、女性は大人でも子供でもパジャマを外出着として普通に着用しています。初めて見た時にはホントにビックリしました。
みやげ物店の女性がパジャマ姿だったり、妙齢のうら若き女性がパジャマを着たまま自転車漕いだり、バイクに乗って走っているのですから。
ドヒャーッ上下が揃っていれば正装として通用するそうで、何とも不思議な感じです。
しかし、この話しをいくら膨らまそうとしてももうこれ以上膨らみませんので、
「ピンクネタは一体何処行った~」「エエかげんにせえよ」とのお叱りを承知の上であっさり断念し、何の脈絡もないまま次の話題に移らせて頂きます。
(ホンマにこんなんでエエんかい?)10日の水曜日、アキラさんに付いて「バンテアイ・スレイ」の地雷原に行って来ました。
今は雨季明けを目前に控え、一年中で一番雨が多い季節なので、タイ国境まで行くには途中車がスタックしたりと大変です。よって先月の「プノン・バケン」に引き続き、今月一杯はこの近場の「バンテアイ・スレイ」の地雷原(マイン・フィールド)が活動地です。
今回の見学参加者は、私を含めてシェムリアップ在住の日本人6名とカンボジア人1名の計7名です。みんな前々から地雷原見学を強く希望していた人達です。
朝9時過ぎに「CSHD」の事務所を出発し、1時間も走らない内に地雷原に到着しました。
現場は、潅木と雑草に覆われた広大な原野で、大きな池の近くに民家がポツリと1軒だけ有り、その先が地雷原です。1983年から89年迄の間、ベトナム軍とポルポト派の戦いが繰り広げられた激戦地です。
着くと、隊員達が分散して金属探知機を使った地雷探査活動をやっていました。
我々7人はアキラさんから地雷原の状況説明を受けた後、プロテクターとヘルメットを装着して貰って、隊員達の活動する地雷エリアに案内されました。今月4日からの活動で、既に10個位の対人地雷、不発弾が発見されていて、今日も我々が到着した直後に1個のベトナム製地雷が発見されました。その爆破処理の様子も見せて貰いましたが、何度見ても身震いします。直径僅か5、6センチの小さな地雷ですが、凄い爆発音と共に周辺に破片が飛び散ります。あれを誤って踏めば、爆風と破片により片足がフッ飛ぶのですから。人生がズタズタにされてしまうのですから。内戦の傷跡が、まだこんな街の近くの村にも残っているのです。平和と隣りあわせで生活している村人が居るのです。
見学者7名の内、1人は10年来のアキラさんの支援者なので地雷原には何度も足を運んでいますが、他の人達は初めての経験なので、地雷の悲惨さ、怖さに大変衝撃を受けていました。この後もアキラさんから、軍隊の残忍さや戦いの様子、飲み水や食料が無くて大変苦労した事、病気になっても言えば置き去りにされるので我慢した事など色々な話を直接聞かせて貰い、私も含めてみんな大変感動していました。
貴重な時間を過ごす事が出来た喜びに浸りながら、また平和について改めて考える機会を与えられた事に満足しながら、地雷原を後にしました。
ピンク路線で行くと言いながら又しても裏切ってしまい、
松尾康平君始め他の
ドスケベな皆さん、ヒラにヒラに御容赦を。
やっぱり私には、
ピンクネタよりもマジネタの方が似合うかも・・・ナンチャッテ
(自分で言うな)いつかは新たに取材して、必ず
ピンクネタを書きますので、今後とも見放さない様くれぐれもお願い申し上げます。
見学者達
石田咲子さん
花田礼子さん
高橋江梨子さん
古川辰己さん
赤澤靖生さんとルイ君
どこぞの男前
ベトナム製M14地雷
迫撃砲の不発弾
隊員に指示を与えるアキラ氏
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- 2012/10/14(日) 08:17:13|
- 博物館関連
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ボランティアの若者が描いた手描きの壁画10月7日(日)
前日までの大雨で校庭に出来た天然プールの水に、子供達の弾ける笑顔と、若者達の清々しい涙が映えています。ここは出来上がったばかりの「スロラニュ小学校」の完成式典会場。
神戸市に本拠を置く「スロラニュ・プロジェクト」(飯塚由美子代表)が手掛けた小学校の完成式典が、先日の日曜日にシェムリアップの街から20キロ離れたコムルー村で開催されたので、見学させて貰いました。
村には学校が無く、子供達は交通量の多い国道6号線を渡って遠くの学校に通っていた為、事故に巻き込まれる事が多かったと言います。それを見兼ねた日本人達「スロラニュ・プロジェクト」のメンバーが、子供達を事故から守る為に立ち上がったと言う訳です。
3月に小学校建設プロジェクトをスタートさせ、7月から建設工事に着工し、たまたまカンボジアに旅行に来ていた若者達が趣旨に賛同して、ボランティアとして毎日入れ替わり立ち替わりで土を運んだりレンガを積んだりの作業を手伝い、遂に汗と涙の滲んだ手作りの学校を完成させました。作業に従事した若者は250人超に上るそうです。
実際にこの目で見た学校は、本当に立派で、子供たちが通いたくなる様なすばらしい学校でした。
「スロラニュ・プロジェクト」は、2009年11月に「地球の歩き方」のカンボジア・ボランティアツアーに参加した人達が、カンボジアの貧しい子供達を目の当たりにして、この子達の為に何か出来ないかとの思いから立ち上げた団体です。
実は私も2010年7月に同じツアーに参加している関係で知り合い、強いシンパシーを感じていました。
カンボジアの未来ある子供達の為に少しでも役に立ちたいとの強い思いが、大地に種を蒔いてこうして確かな実を結ばせました。後は村人達が水を遣り、より大きな木に育てて行くことでしょう。
学校支援は、建物を建てたら終わりではありません。後のフォローが無ければ、幾ら立派な学校を建てても、やがて廃校になってしまいます。
しかしここスロラニュは、生徒や親が自ら建設に関わり、プロジェクトの努力で地域の人々の理解も得、更には「スロラニュ・プロジェクト」のメンバーやボランティアメンバーが引き続き支援を続けるとの事ですので、間違い無くしっかり大地に根を張って大樹に育つ事でしょう。
日本に居た時には全く知りませんでしたが、海外でこうした支援活動をしている民間ボランティア団体は、他にも数多く有ります。
自分の利益の為で無く、人の為に少しでも役に立ちたいと考える日本人が数多く居ると言う事実を、日本の人にも、そして世界中の人々にもっともっと知って欲しいと、強く願います。これこそが正に私の願う
「軍事に拠らない国際貢献活動」です。
このプロジェクトに参加した若者達も、流した汗の分だけ確かな成果を得たと思います。
自分が幸せになる為には、周りの人が幸せでなければなりません。自分だけの幸せなんてものは有りません。子供達の弾ける笑顔から、それを感じ取ってくれたと思います。
若い時にそうした体験をするって、何て素敵な事でしょう。こうした若者がもっともっと増えれば、日本の未来も明るいものになるはずです。
「スロラニュ・プロジェクト」は、カンボジアの子供達の為だけで無く、日本人の為にも大きな役割を果たしました。本当に御苦労様でした。
これからも次々と新しい団体や個人が、カンボジアにやって来て活動する事を願って止みません。例えそれが自己満足に過ぎない活動であっても、相手に迷惑さえ掛けなければ
(ここが重要ですが)、やらないよりはやった方がいいと私は思っています。
尚、「スロラニュ・プロジェクト」のHPアドレスは http://srolanh.org です。前回読んで頂いた方には嘘をついてしまいました。
ピンクネタで行くと言ったのに又してもマジ路線で行ってしまい、しかも全く落ちの無い文章で申し訳有りません。次回こそ、次回こそ取って置きの
ピンクネタで行きますので、お見逃し無く・・
・ホンマかいな。
学校全景
国旗掲揚
ボランティアの若者達と式典を盛り上げたバンド「Milo」のメンバー
子供達
大合唱
可愛いね
ボランティアの若者とスタッフの服部氏
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- 2012/10/07(日) 08:32:19|
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